稚 内
早朝5時半稚内フェリーターミナル到着。ちなみに私は生まれた
名寄以北に来るのはこれが初めてで、稚内の街並みも当然初めて。早朝ということもあるが、静かだなぁ(笑)。市街地に入る前の40号線などは本当に何もなく、道産子の私もビックリ。
この時間にバスが到着するのには訳がある。稚内からは利尻・礼文各島へフェリーが出ており、この始発にちょうど良い時間なのだ。到着したターミナルには既に多くの人が集まっていて、この街が無人じゃなかったことを確認(稚内の方、ゴメンナサイ)。ターミナルには古いながらも洗面所があり、そこで私達も朝の身支度を済ませた。
コルサコフ行きフェリーの乗船手続きは8時半から。持参したおにぎりやパンの朝食をとっても時間があったので手荷物を今一度確認すると、母の荷物から大量の不要の品が‥‥。携帯ラジオ(彼の国ならばスパイ容疑で拘束されるのではないかと焦った)、小袋の豆菓子(同時に持っていた日本酒のつまみのようなのだが、量が半端ではなかった〜帰りのフェリーでも食べきれず、結局持ち帰ることになった)等々。バス車内ではシートの各種機能を使いこなせず、昨夜家で
税関への書類を書いた際はアルファベットに
四苦八苦。この先一体‥‥。
コルサコフ行きフェリーは利尻・礼文行きとは乗り場が異なる。係の方に教えてもらった乗り場には既にフェリーが待機していて、それを目指して歩いていったのだが、途中建物の陰で船は見えなくなるし入り口(曲がるポイント)には看板もなく
わかりづらい。利尻・礼文乗り場からは大荷物を引きずって迷いつつ、徒歩15分ほどで到着。
プレハブ小屋のような待合室でパスポートと乗船券をチェック。その後もう一度パスポートチェックがあった後手荷物検査で、ようやく乗船。その時は「やはり海外だ、チェックがいっぱいある」と思ったのだが、後になって思うと日本国内のチェックなど、言葉も通じるし笑顔もあるし、
万事非常にスムーズ。
稚内〜コルサコフ
船内は非常に快適。青函連絡船と仕様はほぼ同じで、2等の私達は靴を脱いで上がる絨毯敷き。ベタ凪ぎでほとんど揺れなかった。乗客は9割以上日本人。私達のように故郷訪問らしき年配の方もいれば、「○○平和の船」とかいう中学生くらいの団体がいて賑やか(ウルサイ)。そんな乗船中の一仕事は
「出入国記録カード」の記入。
税関の書類は事前に旅行代理店から渡されていたので時間をかけて書くことが出来るが、これは乗船中に書かなくてはいけない。しかも
代筆不可。一応書き方の説明書は貰っているが、母には相当ハードルが高かった。だって、教える私も自分のことで精一杯なんだもの。
日露中間点で時計を2時間進め、サハリン時間にする。サハリンとの時差は1時間だが、今はサマータイムで日本よりも2時間早い。天気は良かったのだが、途中からモヤってきて、直前になるまでアニワ湾〜コルサコフは見えなかった。この間母は船内の免税ビール(札幌黒生が100円)で、私は(これからは大変貴重になるはずの)冷水器の水で寛ぐ。
コルサコフの街が見えてくると「こっちは船見町、あっちは神楽岡」と母のガイドが絶好調。サハリンを離れてから59年が経っているのだが、古地図と照らし合わせても良く覚えているようだ。今は使われていないが、船着場の桟橋にまで線路が通っているのも記憶通り。ハラショ!
合同庁舎
定刻通り17時半に到着。が、ここからが長かった。港では入国などの審査・検査は無く、数百メートル離れた港湾合同庁舎で行うのだが、勝手に行き来することはできない。専用のバスに乗って移動しなければならないのだが、そのバス待ちで50分ほどフェリーの乗り場で立ち往生。こうして事情がわかったのも後になってからのことで、あの時はただ訳がわからずに待たされていた。
ようやく乗れたバスは信じられないほどオンボロ。また地図上の「合同庁舎」は古くて暗くて小さくて‥‥とても国や州の建物とは思えない。フェリーで書いた出入国カードにパスポートを見せ、続く
税関申告書のチェックでは持ち込んだビデオカメラとデジカメを見せろと言われた(「オリンパス」「パナソニック」と、書類に書いたメーカーを言っていたので、多分そういうことだったと思う)。手荷物検査ではカメラのフィルムを別に持っていると「それも通せ」(多分)。困って辺りを見回すと、側に例の「○○平和の船」付きの通訳のおばさんがいたので説明してもらった。ホッ。
全ての審査・検査を終えて待合所風の建物に出ると、背の高い女性が「Ms.KUWAJIMA」という紙を掲げて待っていた。どうやらこの人がこれから3泊4日のガイドをしてくれるらしい。
「ミユキサンデスカ?」「はいそうです」
「ワタシハマリアデス。ヨロシクオネガイシマス」「どうぞよろしくお願いします」
一緒にユジノサハリンスクのホテルまで行くと言うもう1グループの到着を待って、いざ出発。
コルサコフ〜ユジノサハリンスク
ワンボックスカーに私達2人ともう1グループの2人、そしてガイドのマリアさんと運転手の6人でユジノサハリンスクに向かった。母の思い出の地〜生まれた場所や通った小学校など〜はユジノ−コルサコフ間の通り近くなので、着いてそうそうクライマックス。「ここは旧楠渓駅」「この辺りに工場があって」「母親と歩いた海岸の道」etc.あんまり嬉しそうなので車内から写真をとろうと思ったら、マリアさんに「アシタトレマス」と言われてとどまった。
母の感動もそこそこに「もう1グループ」の2人ともご挨拶。KさんとYさんという、ともに30前後の若い男性2人で、道北の町にせっかくすんでいるのだからと今回サハリンを旅することにしたそう。鉄道で行ける最北の町ノグリキ(北緯52度!)まで今日のうちに行ってくると言う。
ホテル・ナターリア
先に私達のホテルまで行き、ノグリキまで行くと言うKさんYさんとはここで分かれた。が、実はこれが後に大きな幸運となって返ってくるのである!何かは最終日までのお楽しみ‥‥
サハリンのホテル事情は厳しい。州都ユジノサハリンスクでもお湯が出なかったり英語が通じなかったりするのは珍しくない。私達が泊まったホテル・ナターリアは旅行会社も「良いところが取れました」というほどのホテル。古さは否めないが、ひとまず安心して宿泊することが出来た。
そうそう、肝腎の
両替だが、やはり初日はルーブルを入手することは出来なかった。ユジノに到着したのは既に19時半を回っていて銀行は閉まっている。ホテルでの両替も不可。ルーブルがないと食事もままならないのだが、ここは日本から持参した(運良く余っていた)おにぎりとパンで繋いだ。
朝の散歩〜朝食
サハリンは日本よりも2時間早いが、早起きの私達は7時前には起きて朝食前の散歩を滞在中の日課とした。この日はまるで地理がわからないことと、昨夜
ホテルに預けたパスポートが戻っていなかったので余り遠出はせず、ホテルが見える辺りを2、30分。初めは野犬(もしくは放し飼い)が多いのに戸惑ったが、近寄ってくることも無く一安心。後でマリアさんに聞いた所によると、サハリンの路地には犬猫が非常に多いらしい。ちなみに犬は「ガフガフ」猫は「ミャオミャオ」と鳴くそうだ。
昨夜は恵まれない晩餐だったからか、殊のほか朝食は美味しかった。ホテルのカフェで出される普通の朝食なのだが、目玉焼きには風味の良いハーブが散らしてあり、パンに添えられたチーズは、トムとジェリーに出てきそうな穴あきのナチュラルチーズを薄く切ったものでベリグー。また飲み物はフレッシュなピーチジュース&香りの良いコーヒーで最高だった。駅前のホテルの人たちは「最低の朝食」と言っていたし、これまでに見たインターネットサイトには「駅前でピロシキを買ったほうが良かった」と書いてあったので、このホテルはやはり「当たり」だったのだろう。
コルサコフへの道
今回の旅行のメインとも言うべきコルサコフ観光の日。が、まずは両替をしないことには始まらない。日本の感覚だと土日でお先真っ暗なのだが、なぜか土日でも開いている銀行があるらしい(それくらいだったら港でなんとかしろよ、と思うのは日本人だからか)。結局4軒目でようやくルーブルの入手に成功した。
ユジノ−コルサコフは果てしなく続く真っ直ぐの1本道。市街を抜けるともう建物は無く、右を見ても左を見ても北海道と同じような松林や草原ばかりで、稚内までの道北の景色と全く変わらない。また乗っている車も日本車(CAMRY)なら回りを走るのも
日本車だ。サハリンがロシアにあって日本に近いのか、それとも北海道がヨーロッパ的なのか。どちらにしても、北海道は明らかに本州よりもサハリン島に近いと実感させられる。
コルサコフ
かつては軍港だった港町・コルサコフ。このように外国人が自由に訪れたり、写真やビデオを撮ったりすることが出来るようになったのは、ここ十数年程のことである。が、母にとっては「かつてはあんなに栄えていた町が‥‥」と無念のようだった。今も残っている当時の建物は
旧拓銀大泊支店や
亜庭(あにわ)神社への石段くらい。昔母が住んでいた
楠渓町(なんけいちょう)辺りも往時の建物は無く、坂、川といった地形だけが頼りではあったが「多分この辺り」というところを見つけることが出来て良かった。
デパート
ユジノサハリンスクには2つデパートがある。レーニン通りの「サハリン」とホテルの近く、ミーラ大通りにある「
ドム・トムゴーヴリ」。どちらも2階建てでエレベーターやエスカレーターはついていない。それなりに商品は充実しているが、日本の感覚だとデパートと言うよりは30年くらい前のショッピングセンターのようだ。
サハリンではデパートに限らず、コンビニ(のような店)や駅売店でも対面販売が基本。薬局のように商品を陳列しているガラスケースがカウンターになっており、商品はその中か奥の棚に並べられていて客は触れない。商品を手に取って選びレジで会計をする店は、私の知る限りチェーホフ通りの「スラビヤンスキーバザール」(外国人向け高級スーパーマーケット)一店のみで(自由市場などを除く)、
ロシア語ができない旅行者には辛いところだ。お陰で
面白い体験をしたが。
ちなみに「サハリン」Vs「ドム・トムゴーヴリ」は、後者の圧勝。「ドム・トムゴーヴリ」は同じ敷地内にフリーマーケットのような露天も出ていて、非常に賑わっていた。お客さんの半分は日本人と韓国人だったけど(笑)。
ゴミだらけ
ユジノサハリンスクは人口約17万。サハリン州の州都でそこそこの街だが、滞在3日目ともなると、ホテルから歩ける中心部は大体把握した。というのも道路は道幅が広く、整然とした碁盤の目になっていてわかりやすい。碁盤の目というと札幌もそうだが、もっともっと大雑把。中心部でも緑が多く、北海道と同様真夏でも埃っぽいほど乾燥している。この環境だけ考えると非常に住み良い街なのだが(冬は考えない)、一つ重大な欠点がある。それは至る所、
ゴミだらけなこと。道端はもちろん、シンボルのレーニン像の台座など、ビールの空き瓶の品評会と化している。歩きながらタバコの包みをポイっとやるところを見かけたが、まだまだ環境意識が薄いのだろう。勿体無いことだ。
博物館&美術館
この日の観光では市内の主な観光地を巡ったが、母は中でも
「サハリン州立郷土博物館」が最も良かったと感動していた。この類の施設は大抵つまらないものではあるが、ここもご多分に漏れず。入ってすぐのゾーンにはアザラシやクマなどご当地の生き物の剥製などが展示されているが、先に進むと、戦前の街の様子をおさめた写真や昔日本人が使っていた生活道具など、日本時代の樺太を紹介する一角があり、そこがいたく気に入ったとのこと。
この博物館と州立美術館は、旧樺太庁博物館と旧北海道拓殖銀行豊原支店の建物をそのまま利用している。往時をしのばせる数少ない建造物で、日本人のお決まり観光ルートだ。美術館は中世から現代までの絵画が1階の広いフロア、2階は1階が見下ろせるキャットウォークになっていて、宗教画や朝鮮文化などの小部屋がいくつか。絵心のない私としては、美術教師の姉が来れば面白いのだろうな、などと思った。
ちなみに美術館の入場料は、(確か)外国人が70ルーブル(約280円)でサハリン在住者が25ルーブル(約100円)。私たちにとって見れば旅行中の280円など安いものだが、そういうところにつけこまれているような気がしないでもない。またビデオやカメラ撮影はプラス数十ルーブルで可。私は撮らなかったけど。
ガガーリン文化公園
市の東側にはガガーリン文化公園なる気持ちの良い公園がある。ガガーリンとは勿論宇宙飛行士の名前だ。多分サハリンだけでなくロシア全土でそうなのだろうが、地名や通りの名に著名人の名前が付けられていることが多い。レーニン、チェーホフ等。
緑・池・遊具・グラウンド・屋台があって、札幌の中島公園と円山公園を足して二で割ったようなところ。また「こども鉄道」なるミニ鉄道も走っているのだが、これは乗客がこどもというだけでなく、こどもが運営している鉄道ということらしい。12、3歳の可愛い男の子が車掌風の制服を着ていた。
行った日が日曜日だったため、園内はお祭りさながら。シシカバブーのような豪快な豚の串焼きや、日本と同じような綿アメなどの屋台がでていた。またこの日は天気が良く気温も上がった(体感27、8℃)ので、子どもは池で泳ぐし草原ではおばさま方が水着姿で日光浴をしていた。また茂みの深いところでは水着もナシのおばあちゃんが‥‥流石に凝視しなかったので詳細は不明だが、夏の短いサハリンでは紫外線など恐れず、太陽の恵みを体いっぱいで浴びるのだろう。
スラビャーンカ
昼に行った博物館では、初日にコルサコフ〜ユジノサハリンスクの送迎車で乗り合わせた二人の日本人男性・KさんとYさんに偶然出会い、夕食を共にすることを約束していた。店の名は
「スラビャーンカ」。サハリンを紹介しているガイドブックやパンフレットには、必ずといっていいほど載っている超有名ロシア料理店で、実は昨夜私達が訪れた時は満員で入店を断られていた。
料理はまあまあ。とにかく一皿の量が多いのでどの料理も1品ずつ頼み、4人で食べてちょうどいい。母はサハリンのビールが飲みやすくて美味しいと気に入っていたようだ。
最後の最後に
サハリン最終日。この日の予定は7時半に迎えの車が来て8時半コルサコフ港到着、出国&乗船手続きの後10時に出港。稚内へは日本時間の13時半到着予定となっている。
実はこの日、一つの不安があった。前日ユジノサハリンスク観光を終え、ホテルまで送ってくれたマリアさんと別れる際
「デハ、アシタ8ジ30プンニ!」と言っていたこと。その時はそれまでの観光のことや“いかにルーブルを使い切るか”ということで頭が一杯で、翌日の出発時間のことなど全く念頭に無かった。だから「8時30分」と聞いても疑問に思うことは全く無かったし、むしろそう言われたことを覚えていた方が不思議なくらいである。そして不安は的中―
7時30分を過ぎても迎えの車は来ない。念のため5分待ったところでフロントに事情を説明。これまでの人生の中で最も必死になって
英語を喋った(喋ろうとした)瞬間だ。まずは旅行会社から渡されている冊子の中の「現地連絡先」に電話をかけてもらう。が、早朝のためか不在。次は日本の「緊急連絡先」への電話だが、これには『1分につき××ルーブル』とフロントのお姉さん。既にルーブルは殆ど持っていなかったのだが、電話をかけないことには始まらない(終われない?)のでそのまま日本へコール。
日本時間では5時半を過ぎたばかりの早朝。が、これも云々言っている場合ではないので旅行会社の責任者の携帯へ電話をする(幸い、早朝にもかかわらず寝惚けた風はなかった)。8時になっても迎えが来なければタクシーを呼んでもらって港へ向かうこと、港へは8時半までに到着することとなっているが、実際は9時頃につけば大丈夫であること、私達の他に、もう2組が同じ迎えの車を待っていること、そしてこの電話の支払いは米ドルでも良いはずだということ‥‥など、重要な情報を聞くことができた。
7時50分過ぎ。そろそろホテルにタクシーを呼んでもらおうかと思った頃、ヒゲのおっさん(失礼!)が「コルサコフ!タクシー?!」と声を掛けてきた。どうやら「コルサコフまでのタクシーを必要としているのはアンタ達かね?」ということらしい。私はフロントに「8時まで待っても来なければタクシーを呼ぶ」と伝えたつもりでいたのだが、私の英語がまずかったのだろうか(可能性大)。それでもまぁいいか、と値段の交渉を始める。
サハリンのタクシーはメーターが付いていないので、交渉しないで乗り込むと後で大変なことになる、と手元のガイドにはあったから。互いの拙い英語同士ではなかなか意志が通じず、おっさんが車の埃に「500」となぞった。約2000円。値段はこれで問題ないが、私達にはもうルーブルがない。「Usダラー、オッケー?」と尋ねると、おっさんは私をホテルのフロントに連れて行こうとした。その時!前夜「スラビャーンカ」で夕食を共にしたYさんの声が聞こえた。
ダースヴィダーニャ(さようなら)、サハリン
迎えのワンボックスカーにマリアさんの姿は無かった。Yさんに聞いたところによると、この車で港へ向かう3組のうち、彼らのホテルが1番目で、運転手さんとマリアさんもそこで待ち合わせをしていた。運転手さんはロシア語しか話せないが、Yさんは会話集片手に頑張り、マリアさん抜きで私達のホテルへ向かってくれと交渉し、こうしてやって来たという。彼らが私達のホテルを知っていたのは、初日、コルサコフからの車が一緒で、私達がホテル前で先に降りたから。そして昨夜の夕食の中で、どうやら同じ車で港へ向かうらしいということがわかっていたから。
しかし一緒に港へ向かうのは3組。もう一組のホテルは流石の彼らも知らない。‥‥ここでポイントを上げたのは私だった。先程の国際電話の中で、私達以外の2組の宿泊先を走り書きだがメモしていたのだ。早速そのホテルへ向かうと、やはり昨日博物館前で偶然お会いしたsさん親子が待っていた。が、それほど焦っていた風は無く‥‥ここが最初じゃなくて本当に良かったと、内心大安堵。港の近くまでやってきた後も、目指す建物(合同庁舎)がどこにあるのかわからず、ギリギリまでハラハラ。が、Yさんのロシア語のお陰で、なんとか9時には辿り着けたのだった。
こんなドタバタはもう2度とゴメンだが、今となっては良い旅の思い出の一つ。それに言葉も通じない、お金も無いあの状態でも何とか切り抜けられたのだから、日本にあっては、もう、そうそうの事では動じないぞという逞しさを身に付けたような気がする。え、これ以上逞しくなったのかって‥‥?!
スパシーバ(ありがとう)!
最終日にはそんな訳で挨拶をすることもできなかったのだが、滞在中ガイドをしてくれたマリアさんにはとても感謝している。サハリン総合大学3年という彼女は非常に勤勉だった。会話の中でわからない言葉があると、すかさずメモして翌日には調べてきていた。車の中では退屈しないようにという配慮なのか、サハリンの写真集を持ってきて説明をしてくれた。スポーツ(陸上)をするから酒もタバコもNG。ロシアのアイドル「タトゥー」は嫌いだといっていた。3人姉妹の長女で、ガイド初日には上の妹さんが受験だと言って心配していた。(ガイドを務めることが出来るほどの)日本語よりは英語の方が得意だと言っていたから、ロシア語と併せて3ヶ国語を使いこなせるなんて、かなり優秀な大学生なのだろう。
たった3日間のお付き合いだったが、母も私も、すっかり彼女のことが好きになっていた。私は旅行会社にペナルティーを科すことの無い様にメールをし、母はこの後、また慣れないローマ字と格闘して手紙を出すことになっている。この旅行記を書く時、この最終日のエピソードを載せるかどうか、もしくはガイド名を匿名にしようか等少し考えたが、彼女がいたからこそ、この旅行が素晴らしいものになったのは事実。敢えてそのまま掲載することにした。平仮名・カタカナは読めるので、もし抗議のメールが来たら、その時は考えよう‥‥