★サハリンカラーです★  最終更新 2004.12.25.
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コルサコフ港・水彩画風



◆特別寄稿・樺太の思い出



尋常小学校5年生で終戦・引き揚げとなった母。
今回は、実に終戦以来、59年振りの故郷訪問でした。
普段から文章を書くのが好きな母に
樺太時代の思い出を振り返ってもらいました。
(※一部聞き書き。私による訂正・加筆あり)





終戦

昭和20年8月15日。5、6年生だけが職員室に呼ばれ、天皇陛下のラジオ放送を聞いた。その後すぐに家に帰される。

15日夕方、引揚船である軍艦・高栄丸に乗船。知人の朝鮮人・工藤さんが貸して下さった大八車にチッキ(鉄道小荷物の呼称)3口を乗せて、義父と次兄(三男)が直接港まで運んでくれた。翌朝16日出港、17日午後北見市上常呂に到着。

数えで「14歳以上の男子は引揚ならず」とされており、旧制中学2年だった次兄は該当。取締官に「お前は小さいから通してやる。船に乗りなさい、早く!」と言われたが、兄は「規律は守るべきだ」と残った。終戦から3年後に帰国したが、治安が悪化したサハリンで7回も泥棒に入られたそうだ。


引揚船

軍艦だったため、終戦を迎えた16日になっても水兵さんが日の丸を揚げ、君が代を斉唱していた。そして乗船中、産気づいた妊婦さんが出産。船内放送でこの出産を伝えたのだが「この船で生まれたので、船名に因んだ名前を付けました」と付け加えたのが忘れられない。「高栄丸」のどの字を採ったのかも知らないが、健在だったら59歳になるはず。どこにおいでだろうか。

船体横に丸太を組んだだけの急作りの“トイレ”が、とても恐かった(※今回の「アインス宗谷」乗船中も、「この辺りにあって‥‥恐かった」と当時を振り返っていた)。


樺太での子ども時代


【住 処】

生まれは大泊町の北、楠溪町(なんけいちょう)北部の集落・山下町。出生時、放浪癖のあった父は居所もわからず、長女と次女は奉公に出されていたため、8歳の三女と5歳の次男(長男は10歳で夭折)が朝の5時頃、二人で産婆を呼びに行ったそうだ。

そんな家庭の事情で、引越しが多かった。生まれて間もなく高台にある家へ、その後栄町(さかえまち)、本町(ほんちょう)、また楠溪町。樺太の北・国境近くに働きに行く母に連れられて、母と二人だけ居を移したこともあった。自分の記憶にあるだけでも、樺太にいた11年の間に6、7ヶ所の住処があったと思う。

今も残る拓銀の側に住んでいた時には、母の帰宅を待つ間、拓銀前の道路で一人絵を描いていたものだ。また近くには冨士館(ふじかん)という映画館があり、その横ではおばあさんがお好み焼きの屋台を出していた。その様子をじっと見物しているうちに自然と作り方を覚えてしまったものだ。


【母との思い出】

末っ子だったせいか、幼い頃は母が出掛ける際には良く一緒に連れて行かれた。出稼ぎで遠出する時や行商の仕入れで町に出る時には、海辺の埃立つ道を、長めのバナナ籠の中に自分を背負い、いつも歌を歌いながら歩いた。物心ついて、その歌の歌詞は母親の人生そのものだったことに気付いたが、それを思うと今も涙が止まらない(※この「海辺の埃立つ道」はコルサコフ港からユジノサハリンスクに向かう道路。祖母の写真を携えていった母は、59年振りに母子でこの道を通ることが出来ました)。


亭主持つなら 堅気をお持ち
とかくやくざは 苦労の種よ
恋も人情も 旅の空

藤田まさと作詞 東海林太郎「旅笠道中」より


6歳(数え)の時には、母は離婚手続きのために司法書士事務所に通っていた。その度に楠溪町から本町にある代書屋へ共に行くのだが、用が終わるまでの間が退屈で退屈で仕方なかった。

国民学校入学時は山下町の2軒目の家にいたと思う。懇意にしていたsさん宅に編物の上手な娘さんがいて、ワンピースを編んでくれた。薄みどり色で、両裾にチューリップの編み込みのあるポケット付き。この自慢の服にあずき色のランドセルを背負って学校に通った。食うや食わずの生活の中で母は、自分にはお洒落を与えてくれた。


帰国後

何年か後でも、日露が“ブラリ旅”のできる国交を結んだら、着替えの数着だけ持ってスニーカーを履いて、また大泊の街を歩きたい。そんな気持ちに今は傾いている。というのは、建物は日本式ではないけれど、吹く風、街中を走る道路は子どもの頃と変わっていなかったから―

サハリンの土を踏んだ時は、夢の中にいたような、実感が遠くにあったけれど、今になって街路樹に道を占拠されて細くなった道幅や、雨にぬかるんだ大泊の土地が哀れで愛しくて涙が出ます。行って良かった。



筆者紹介

元の住居近くにて。たまたま話し掛けてきた同年代のおばちゃんたちと 桑島・母。昭和9年8月2日(戸籍上は12日)大泊生まれ。3男4女の末っ子。引揚げるまでは大泊町立楠溪国民学校(終戦時は5年生)に通っていた。まだまだ現役でパートにでている(子どもらがなかなか落ち着かなくて‥‥)。


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